【富士山頂・気象観測所の飯】極寒と酸欠の山頂で、観測員たちは何を食べて冬を越したのか?
あの日の食卓
0:00 / 0:00
【富士山頂・気象観測所の飯】極寒と酸欠の山頂で、観測員たちは何を食べて冬を越したのか?
7 320 просмотров · 7 дн. назад
あの日の食卓
423 подписчика
7 320 просмотров · 7 дн. назад
富士山頂、標高3,776メートル。
冬の気温は氷点下20度を下回り、強風が吹けば、立っていることさえ難しくなります。
かつて、そんな場所で気象観測を続けるために、気象庁の職員たちは約三週間ずつ交代しながら山頂で暮らしていました。
しかし、彼らを待っていたのは、観測の仕事だけではありません。
雪上車が進めるのは途中まで。
そこから先は、アイゼンとピッケルを使い、自分の足で山頂を目指さなければなりませんでした。
冬の富士山には、雪が吹き飛ばされて硬い氷となった「蒼氷」が広がります。
横風を受ければ転倒し、そのまま滑落につながる危険もありました。
平均風速が一定以上になる日や、山頂の気温が氷点下30度を下回るような日は、登山そのものが中止されることもありました。
悪天候が続けば、交代要員が一週間近く登ってこられないことさえあります。
その間、山頂に残された職員たちは、限られた食料と水で勤務を続けなければなりません。
山頂で炊事を担当していたのも、料理人ではなく気象庁の職員でした。
標高3,776メートルでは気圧が低く、水はおよそ88度で沸騰します。
普通の方法では米をうまく炊くことが難しく、圧力釜が欠かせませんでした。
ガスではなく電熱器を使い、米や保存食、冷凍食品を組み合わせながら毎日の食事を作ります。
さらに冬の山頂では、水道から自由に水が出るわけではありません。
雨の少ない冬には、外から集めてきた乾いた雪を電熱器で少しずつ溶かし、飲み水や炊事用の水を作りました。
薄い空気の中で行う「水取り」は、それだけでも重労働でした。
三週間の勤務中、入浴できるのがわずか数回ということもあったといいます。
そして約十日に一度、強力と呼ばれる山の運搬人が、新鮮な野菜や魚、肉などを背負って山頂まで運んできました。
危険な冬山を二十キロ以上の荷物を背負って登ってくる、その人の到着は、山頂勤務の職員たちにとって大きな楽しみでもありました。
新鮮な食材が届いた日には、普段より少し特別な食事が作られます。
ちらし寿司を作ったり、正月には餅をついたりすることもありました。
富士山頂での常時観測は、1932年に始まりました。
残された記録には、高山病、食料不足、冬の厳しい勤務、戦時中の空襲、そして高地で米を炊くために行われた実験まで記されています。
七十年以上にわたって続いた有人観測の歴史の中では、冬山で命を落とした職員もいました。
そして2004年、富士山頂で続いてきた常駐観測は大きな転換点を迎え、観測は自動化へと移っていきます。
本動画では、冬の富士山頂測候所へ向かう職員たちの登山、三週間の交代勤務、標高3,776メートルでの炊飯、雪から作る水、強力による食料輸送、そして1932年から2004年まで続いた有人観測の歴史を通して、「富士山頂で冬を越す」ということが実際にはどのような暮らしだったのかをたどります。
そして出発前、職員たちが食べていた「とんかつ」。
一見すると、無事を願う験担ぎのようにも見えます。
しかし、その理由はもっと現実的なものでした。
過酷な山頂勤務を支えていたのは、特別な儀式ではなく、圧力釜、電熱器、雪から作る一杯の水、そして何十キロもの食料を背負って登ってくる人々。
そうした一つ一つの具体的な仕事だったのです。
※本動画は、歴史資料・記録・研究・公的機関等の情報をもとに、富士山頂測候所における有人観測、冬季勤務、食事、水の確保、物資輸送などについて解説することを目的として制作されています。
※映像は、当時の状況を分かりやすく伝えるため、AI技術を使用して再構成しています。
※史料が限られている場面については、確認できる測候所設備、勤務制度、登山装備、服装、食料、生活条件などをもとにした推定を含みます。すべての室内配置、人物の行動、服装の細部などを断定するものではありません。
皆さんなら、氷点下の富士山頂で三週間、限られた水と食料だけで勤務することができるでしょうか。ぜひコメントでお聞かせください。
動画が興味深かった方は、高評価とチャンネル登録をよろしくお願いいたします。
#富士山 #富士山頂測候所 #気象庁 #富士山測候所 #気象観測 #冬の富士山 #昭和史 #日本史 #気象 #登山 #冬山 #強力 #圧力釜 #昔の食事 #山の暮らし #昭和の暮らし #歴史ドキュメンタリー #AI歴史再現