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理性を信じた男は、なぜ幸福になれなかったのか?|カントの生涯

だるま思考

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理性を信じた男は、なぜ幸福になれなかったのか?|カントの生涯

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だるま思考
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イマニュエル・カントの生涯|『純粋理性批判』で人間の理性の限界を線引きした哲学者は、晩年、40年仕えた従者の名を忘れるために「ランペの名は、今や完全に忘れ去られねばならない」と机にメモを残しました。理性の限界を誰よりも深く知った男が、なぜ理性の届かない場所で何度もつまずき、最後は自分の記憶を扱えなくなったのか。 1724年、東プロイセンのケーニヒスベルクで馬具職人の家に生まれたカントは、小柄で胸のくぼんだ体と病気恐怖症を抱えて育ちました。13歳で母を、22歳で父を亡くして大学を中断し、郊外の貴族の家で住み込みの家庭教師として9年を過ごします。ここで上流の作法を覚え、ビリヤードとトランプで小遣いを稼ぎ、夜会で女性たちと会話を楽しむ「優雅なマギステル」になりました。 1758年、七年戦争でロシア軍が街を占領すると、彼は占領軍の将校にビリヤードと火工学を教えて日銭を稼ぎ、教授職を得るためにロシアの女帝エリザヴェータに忠誠を誓う嘆願書を送ります。結果は落選。以後12年間、受講料だけが収入の私講師として週20時間以上の講義を続けました。 40代で親友になったイギリス人商人ジョセフ・グリーンから「時計のように生きる」生活を学び、1770年、46歳でようやく正教授に。しかしその直後、ヒュームを読んで「独断のまどろみ」から覚め、10年間沈黙します。1781年、57歳で出した『純粋理性批判』は難解すぎて黙殺され、彼は自分で解説書を書き続けました。数年後に真価が広まると、ヨーロッパ中から学生が押し寄せ、「哲学の王」と呼ばれます。 一方で、1791年に失恋で生きる意味を失った令嬢マリア・フォン・ヘルベルトから届いた手紙には「自殺は道徳法則に反する」と説く返事を書き、二通目には返事をせず、彼女は1803年に自ら命を絶ちました。1794年、70歳で国王から宗教について書くことを禁じられると「陛下の最も忠実な臣下として」沈黙を約束し、1797年に王が死ぬと「あの約束は先王の在位中だけのもの」として再び書きました。 1802年、従者ランペを解雇したあと、彼は忘れるためにその名前を紙に書きます。1804年2月12日、「これで良い」という言葉を残して79歳で死去。葬儀には数千人の市民が集まりました。 断罪も擁護もしません。そういう人間が、これを書いた。その事実を順に置いていきます。 【参考】 カント『純粋理性批判』『実践理性批判』『道徳形而上学の基礎づけ』『啓蒙とは何か』『永遠平和のために』『諸学部の争い』、書簡集(マリア・フォン・ヘルベルト往復書簡、1794年10月12日付国王宛て返信ほか) マンフレッド・キューン『カント伝』、ヤッハマン/ボロフスキー/ワシアンスキーによる同時代の伝記、石川文康『カント入門』ほか 晩年の記憶の衰えは友人たちの回想に基づき、病名は史料上確定していません。「散歩で市民が時計を合わせた」逸話、結婚の熟考の逸話は後世の誇張・俗説とされるため、その旨を本編で述べています。年号・出来事は伝記および研究書に基づいて確認していますが、誤りにお気づきの際はコメントでご指摘ください。 ―――――― 00:00 プロローグ:仮面を被った「理性の聖人」の実態 02:06 第1章:極貧の病弱ボーイと、母が植え付けた善意 04:43 第2章:没落からのサバイバルと「ビリヤード伊達男」 06:39 第3章:大国ロシアの占領と、権力への媚び 09:04 第4章:「時計伝説」の真の生みの親と、狂気的ルーティンの完成 10:58 第5章:「独断のまどろみ」からの覚醒と、沈黙の10年 12:29 第6章:コペルニクス的転回と、遅咲きの大逆転劇 14:46 第7章:純粋理性の限界と、見殺しにされた少女マリア 17:48 第8章:絶対王政との対決と「あえて知れ」 19:48 第9章:忘却のためのメモと、理性の死 21:47 エピローグ:我が上なる星空と、脆き人間への讃歌