【壮絶】関ヶ原で負けた石田三成には逆転の道があった「腹を切らなかった理由」処刑までの16日間を地形と日付からAIで検証
戦国AI検証録
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【壮絶】関ヶ原で負けた石田三成には逆転の道があった「腹を切らなかった理由」処刑までの16日間を地形と日付からAIで検証
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慶長5年(1600年)9月、関ヶ原で敗れた石田三成は、腹を切らずに近江の山へ逃れ、6日後に捕らえられたとされます。その最期には、潔くないという厳しい見方も向けられてきました。
ところが、三成が捕まったとされる日にも、大坂城には豊臣家の当主の秀頼と、西軍の大将の毛利輝元がいました。同じ戦いで負けた大名の中には、大坂へ抜けた者もいたと伝わります。
もしも三成が大坂城に入れていたら、何ができたのか。
今回は、記録の日付と、地形のデータから引いた道のりをAIで計算し、関ヶ原から処刑までの16日間をたどりました。
腹を切らなかった理由の見方は、3つに分かれます。
大坂で逆転を狙った。頼朝のように命をつなぐのが大将の道だった。病と捜索で選択を狭められた。
あなたは、どれだと考えますか? コメントで聞かせてください。
※ 動画の答えは、残っている記録の日付と、AIで計算した道のり・日数で読むなら、という条件付きです。
■ 目次
0:00 はじめに
1:44 1章 捕まった日、三成と大坂城はどれほど離れていたのか
3:40 2章 なぜ三成は、大坂と逆の北へ逃れたのか
8:45 3章 大坂へ抜ける道は、すでにふさがっていたのか
15:02 4章 三成は、いつ出れば大坂へ着けたのか
20:07 5章 山中の三成は、何に追い詰められたのか
24:42 6章 大津では、三成の生き方がどう語られたのか
28:51 7章 大坂城に入れていたら、何が変わったのか
36:10 8章 三成は、なぜ腹を切らなかったのか
42:58 9章 三成の首は、その後どこへ行ったのか
■ 主な史料
『史料綜覧』、板坂卜斎『慶長年中卜斎記』、『常山紀談』、『関原始末記』、真田増誉『明良洪範』、渡辺世祐『稿本石田三成』(1907・1929)ほか
※ 出典は、動画の各場面の右下に出しています。
※ サムネイルの絵は、石田三成の肖像画をもとにAIで作成したイメージです。
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