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島津義弘 の一生をゆっくりたどる長編歴史物語|敵の本陣を突き破って薩摩へ帰った鬼島津の生涯【睡眠用 ぐっすり | 3.7時間/221分】

おやすみ歴史館

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島津義弘 の一生をゆっくりたどる長編歴史物語|敵の本陣を突き破って薩摩へ帰った鬼島津の生涯【睡眠用 ぐっすり | 3.7時間/221分】

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【島津義弘】 負けた側に、ただ一人残った隊がありました。 8万の敵の中の、300。 その隊は、退くのではなく、敵の本陣の正面へ向かって走り出します。 率いていたのは、生涯52度の戦に出た、66歳の老将。 先頭に立ちたがる若者だった男が、家を残す男になるまで。 これは、鬼と呼ばれ、敵の死者を弔い続けた島津義弘の物語です。 ────────────────────── 🎞連続再生はこちら🎞 ▶ 戦国時代:    • 戦国時代   ▶ 人気ベスト10:    • はじめての方へ 人気ベスト10   ────────────────────── ◆ 伊作の兄弟 1535年、薩摩の伊作で、島津貴久の次男として生まれました。 本家を追われた分家の子で、雪の庭で兄と木刀を打ち合った少年は、 祖父の日新斎から、いろは歌と仏の教えを受けて育ちます。 ◆ 先頭に立ちたがる若者 20歳の初陣から、いつも先頭に立ちました。 矢を受け、刀で斬られ、父に叱られても、やめません。 飯野の城主となり、兵と同じ飯を食い、僧も山伏も農民も招き入れました。 ◆ 木崎原 38歳のとき、300の兵で、3000の伊東の軍に当たります。 伏兵と、旗と太鼓で敵をだました村人たちと、膝を折って槍をかわした馬。 九州の桶狭間と呼ばれる戦いで、伊東の名のある武士はあらかた討ち死にしました。 義弘は戦のあと、敵も味方も分けずに弔う塔を建てます。 ◆ 天下の軍 三州を統一した島津に、秀吉の20万の軍が来ました。 根白坂で、兵の数でも武具でも勝てない相手に初めて会い、兄は髪を下ろして降伏します。 大隅と日向を島津に残したのは、交渉の席の石田三成でした。 ◆ 海の向こう 朝鮮へは、兵が集まらず、たった2隻の船で渡りました。 日本一の遅陣と笑われた男は、5年後、50余りの船で再び海を渡ります。 泗川では7000の兵で大軍を退け、露梁の海では立花宗茂と同じ船団で戦いました。 そのあいだに、4人の男の子を失い、弟の首を兄の兵に打たせています。 ◆ 関ヶ原 西軍が崩れたあと、1000に満たない島津の隊だけが残りました。 甥の豊久と家老の盛淳に止められ、義弘は敵の本陣の正面を突き破って退きます。 豊久も盛淳も、身代わりになって死にました。 のちに「島津の退き口」と呼ばれる道です。 義弘は大和の寺に匿われ、人質の妻を住吉で迎え、海路で薩摩へ帰りました。 ◆ 定まる風 家康との和睦は2年かかり、家は残ります。 加治木に退いた義弘は、若者に四書を読ませ、妻を見送り、85歳で世を去りました。 薩摩藩は270年続き、朝鮮から連れ帰った陶工の薩摩焼と、 連れて行った猫を祀る神社が、今も鹿児島にあります。 本日は、先頭に立ちたがる若者が、鬼と呼ばれ、 敵の本陣を突き破って家を残すまでを、ゆっくりとたどっていきます。 ■_______________ 動画作成に使用した資料 _________________■ 📕一次史料(当事者・同時代人が書き残した日記・記録・報告) ・『惟新公御自記』(義弘が晩年に自分の生涯の戦を振り返って書き残した手記) 岩剣城の初陣、木崎原、耳川、根白坂、朝鮮の戦いの心持ちを本人の言葉で伝える。 動画の「手記」はすべてこの記録。 ・『上井覚兼日記』(島津の家老、上井覚兼の日記) 義弘が家老たちに戦場の傷を治す医術を1週間かけて伝授したことを、 その日付まで書きとめる。 ・『島津家文書』(島津家に伝わった書状・起請文・掟書) 義弘の「当家職相続」の起請文、義久と連名の掟、 朝鮮へ出陣する前に国許へ命じた掟など、両殿の体制を伝える。 ・『旧記雑録』(島津家の古文書を年代順に集めた記録) 水俣攻めの陣立て、義弘が各地の武辺者を集めた名簿など、 家中の動きを文書のまま伝える。 ・『山田晏斎覚書』(義弘に従って関ヶ原を戦った家臣、山田有栄の覚書) 関ヶ原の当日が雨で霧が深く、詳しくは見えなかったと書きとめる。 ・『箕輪伊賀日記』(蒲生攻めに従った家臣の日記) 蒲生攻めの陣容と、合戦で義弘が重傷を負ったことを伝える。 ・ルイス・フロイスの記録(『日本史』) 梅北国兼の一揆を、秀吉の政権への反乱だと宣教師の目で書き残す。 ・『宣祖実録』(朝鮮王朝の公式の記録) 泗川に攻め寄せた明の軍が約2万7千、朝鮮の軍が約2千だったと、 朝鮮の側から伝える。 📗二次史料(後の時代に成立した軍記・家記・史書) ・『日向記』(伊東の側で編まれた日向の記録) 木崎原の戦いで伊東が大将と日向一の槍突きを失い、 都於郡と佐土原の若い武士があらかた討ち死にしたと、伊東の側から書き残す。 ・『岩剣御合戦記』(岩剣城攻めを伝える島津家の合戦記) 義弘の初陣で、兄の義久と叔父がどこに陣を取り、 義弘が白銀坂を越えて脇元に陣したかを伝える。 ・『島津家代々軍記』(後の世に編まれた島津家の軍記) 義弘が家康に頼まれて伏見城に入ろうとし、鳥居元忠に拒まれて やむなく西軍に転じたという話を伝える。 ・『惟新公関原御合戦記』(島津家に伝わる関ヶ原の合戦記) 関ヶ原から退く途中、大坂の人質を捨てて帰れるかと言った義弘の言葉を伝える。 ・『征韓録』(島津家が編んだ朝鮮の役の記録) 文禄・慶長の役で島津の軍が泗川や露梁でどう戦ったかを、島津の側から伝える。 ・『大友記』(大友家の軍記) 宗麟の軍が十字架の旗を立てて日向へ南下し、 行く先々で社寺を焼いて住民の怒りを買ったことを伝える。 ・『島津国史』(薩摩藩が編んだ島津家の正史) 伊作の分家から本家を継いだ貴久と義弘の歩み、 義弘が八代の城で国の政を預かったことなどを伝える。 ・『島津家御旧制軍法巻抄』(島津家に伝わった軍法の書) 伏兵の前へ敵を誘い出す釣り野伏、旗印を先頭に敵の本陣へ斬り通る穿抜けなど、 島津の軍法の中身を伝える。 📘その他(逸話集・読み物・後世の編纂物) ・『薩藩旧伝集』(薩摩に伝わる逸話を集めた記録) 秀吉が平野肩衝を与えた話、中馬重方が鎧櫃を奪って美濃へ駆けた話、 泣きながら駆けた退き口、若者に四書を読ませた話などを伝える。 ・『落穂集』(江戸時代の読み物) 関ヶ原の前夜に豊久が三成へ夜襲を献策し、一蹴された話を載せる。 作り話と見る研究者もいる。 ・『本藩人物誌』(薩摩藩の人物伝) 義弘の妻の実家の園田家や、娘たちの嫁ぎ先と法名を伝える。 ・『島津義弘公記』(後世に編まれた義弘の伝記) 少年時代の義弘が兄とともに加世田の祖父のもとへ通ったこと、 雪の庭で木刀を打ち合ったこと、日新斎が兄弟に別々の答えをした話を載せる。 動画の構成・演出について----------------------- 当チャンネルでは、史実に基づいた流れを大切にしつつ、 歴史にあまり詳しくない方でも歴史ロマンを最大限に楽しんでいただくため、 以下の要素を含めて構成しています。 ・後世に語り継がれた創作的なエピソード(軍記物・講談など) ・史料が乏しい部分への独自の解釈や演出 ・複雑な史実を、物語として理解しやすい形に再構成 歴史研究としての厳密さよりも、 「物語(エンターテインメント)」としての面白さを重視しています。 史実の余白や諸説ある部分を、あくまで“ひとつの解釈”として 楽しんでいただければ幸いです。 また、使用している画像は原則AIにて生成したものです。 AI画像生成の技術的な制約により、時代考証に基づいた正確な描写が困難なため、 あくまで"雰囲気を感じるためのイメージ"としてお楽しみください。 ※一部、資料としてパブリックドメインの画像を使用している場合があります。 #島津義弘 #関ヶ原の戦い #島津の退き口 #鬼島津 #朝鮮出兵 #大河ドラマ #豊臣兄弟