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「豊臣兄弟!」に学ぶ日本史 千利休の最期① 秀吉は天下を統一すると利休と茶道に対する態度を一変させるが秀長が防波堤となり・・ History of JAPAN

歴史JAPAN Kunibo

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「豊臣兄弟!」に学ぶ日本史 千利休の最期① 秀吉は天下を統一すると利休と茶道に対する態度を一変させるが秀長が防波堤となり・・ History of JAPAN

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利休の最期②は、なぜ切腹する道を選んだのか?、です。2話完結で、ご期待ください!! 1591年(天正19年)2月28日、天下人・豊臣秀吉とともに茶の湯を芸術と政治の最高峰へと押し上げた「茶聖」千利休は、70歳で切腹を遂げた。かつて諸大名が秀吉に内密の相談を持ちかける際の不可欠な窓口として絶大な権勢を誇り、二人三脚で天下を動かしてきた二人の関係がなぜ急変したのか。その背景には、美意識の乖離と豊臣政権内部の構造変化、とりわけ利休の切腹のわずか1か月余り前に病死した秀吉の実弟・豊臣秀長の存在があった。 堺の豪商に生まれ、信長に続いて秀吉の筆頭茶頭となった利休は、茶道具の授与や密室での政治交渉を行う「茶の湯政道」の中核を担った。二人の蜜月ぶりを象徴するのが「朝顔の茶会」の逸話である。利休は庭一面の朝顔をすべて摘み取り、薄暗い茶室に極上の一輪だけを生けて秀吉をもてなした。この余分なものを削ぎ落とす「引き算の美学」に秀吉は深く感嘆し、利休への信頼を不動のものとした。 一方、秀吉が造らせた豪華絢爛な「黄金の茶室」は、従来「わびさびを愛する利休が嫌悪し、対立の火種になった」と語られてきたが、最新の研究では否定されている。実際には利休自身が設計・演出に関わっており、三畳という極小空間や移動可能な組み立て式の構造には利休の思想が色濃く反映されていた。北野大茶湯などの巨大イベントも含め、政権確立期における秀吉の「足し算の政治演出」と利休の「引き算の空間設計」は、互いを補完し合う最強の共鳴関係にあったのである。 この蜜月と利休の政治的権勢を裏で支えていたのが、政権ナンバーツーの豊臣秀長であった。『大友家文書録』に「公儀(表の政務)は秀長、内々(私的な相談)は利休」と記された通り、秀長という「公儀の重し」があって初めて利休の働きは安全に機能していた。当時、石田三成ら若手の実務官僚(奉行衆)は、一介の茶人にすぎない利休が政務に介入する状況を「越権行為」として敵視していたが、利休の熱心な高弟でもあった秀長が最大の防波堤となり、奉行衆の攻撃や秀吉の気まぐれな怒りから利休を守っていたのである。 しかし、九州平定から1590年(天正18年)の小田原征伐・奥州仕置を経て天下統一が達成されると、環境は一変する。独裁者となった秀吉にとって、諸大名との緩衝材としての茶の湯の価値は急落し、自らの絶対的権威に服さない者を排除する猜疑心が強まった。 二人の精神的な乖離が先鋭化したのが、美意識の対立である。利休が瓦職人の長次郎に焼かせた漆黒の「黒楽茶碗」や極小の茶室は、わびさびの極致であったが、金や赤の輝きを好む秀吉には「自らの黄金の権威を否定する陰気な闇」として映るようになった。小田原征伐の陣中では、利休の高弟・山上宗二が秀吉の茶の湯を批判して惨殺される事件も発生し、利休の周辺には文化統制と粛清の嵐が吹き荒れ始めていたのであるが・・ 作曲 秋山裕和 http://www.hmix.net/ #nhk大河ドラマ #豊臣兄弟 #千利休