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【延喜式】 丹後国 熊野郡十一座 神谷神社 カムタニノジンジャ

ひふみの言霊

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【延喜式】 丹後国 熊野郡十一座 神谷神社 カムタニノジンジャ

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ひふみの言霊
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延喜式神名帳 丹後国65座 熊野郡十一座 神谷神社 カムタニノジンジャ 延喜式吉田家本に「カムタニ」の訓を付しているとあり、現在正式の社名を「神谷(カンダニ)神社」と称するが、一般には「太刀宮(タチノミヤ)」と云ふ者が多く、また「神谷太刀宮」とも言はれている。これはもと太刀宮に式内神谷神社を合祀した由緒に原因であろうと云う。旧社地は大字神谷小字明神谷にあり、崇神天皇十年秋九月、四道将軍丹波道主命が勅命をうけて山陰地方を巡視された時、前途の武運長久を祈願するため、この久美濱の地に社地を定めて出雲國の八千矛神(大己貴命ー大国主命)が斎き祀られたのが神谷神社の創始であるが、中世の頃、兵乱のため社屋破損したので、小字小谷にある太刀宮に合祀したものであると云う。また太刀宮は、道主命が薨去の後、國人が命を追慕し、現在地に神社が創建されたのである。その時命のはかせられた國見の劍を太刀宮の神靈として斎祀った。そのため太刀宮と称されたとある。寶劍「國見の劍」は奈良朝の頃紛失して今はないが、現存する宗近荒身の太刀は寶劍の紛失を嘆き宮津藩主京極丹後守より寄進されたものだと云う。例祭には神輿は御旅所へ朝渡御され、午後帰還される例であったが戦後はこの御幸行事を半日で終わるよう改められ、また御旅所には立寄らず町内を一巡することに改めている。神楽も行はれていたが明治三十年頃から廃止。神子は神子の家といふのが別にあって、その家の女子が専門に奉仕したが、明治初年の改革により神職と神子が分離されたことにより自然廃止となった。また宮司宅前に「おはけ竹」を立てる。先端を切りそこへ藁束をさし、それに御幣をさした枝付の青竹を立て、周囲に四本の杭を打ちしめ縄で結ぶといったものである。さらに神殿には通常の供物のほか、大根数本を割切りにしたものを供へ別に、白飯を竹筒に押し込みところてんのやうに押し出し作った細長い飯の棒状数本を高杯にたて神前と劍岩とに供える。神前の中央に立てる一本だけは赤飯造りで赤色の飯棒となっているとある。例祭のほか雨乞神事・湯立神事なども行はれたが、これも現在は廃止されていると云う。かつては大明神講・太刀宮講・厄除け講・明神講などがあった。江戸時代にはこの地に久美濱代官所が置かれていた関係上、丹後・但馬地方管内の住民の出入も多く、講の加入者は丹後・但馬一圓の有志に広がっていたが、現在は明神講だけで敬神講と名を改め続けており、講の当日には講中の者は神官とともに神社において神祭を行うと云う。現社殿は天明元年(1781)の再建とあり、境内大石の下より土器古銭の出土あり、石室であろうと云う。 祭神:八千矛神/丹波道主命/天神玉命/天種子命 所在:京都府京丹後市久美浜町1314 撮影時の境内の音を録音しております。イヤホン推奨 2026年5月撮影