マリーアントワネット|王妃はなぜ「国家の敵」として裁かれたのか?
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マリーアントワネット|王妃はなぜ「国家の敵」として裁かれたのか?
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1791年6月21日の深夜、フランス東部の小さな町ヴァレンヌで、六頭立ての大きな馬車が止められました。中に乗っていたのは、変装した国王一家です。味方の軍が待つモンメディまで、残りおよそ50キロ。前の晩にパリを出てから、まだ一日ほどしか経っていませんでした。逃亡は、そこで終わります。
この一夜のあと、王妃マリー・アントワネットは二年四か月で断頭台に送られます。ただし、壊れたのは王政そのものではありませんでした。1791年9月、ルイ十六世は憲法を受け入れ、立憲王政はもう一度だけ動き出しています。あの夜に失われたのは、王を信じられるという前提のほうでした。
浪費で国を潰した王妃、という評価も、当時の帳簿とは食い違います。1788年の見積もりで支出はおよそ6億3000万リーヴル、収入は5億リーヴル余り。そのうち約半分は借金の返済、4分の1は軍の費用で、宮廷全体の費用は支出のおよそ6パーセントでした。彼女の贅沢は、その6パーセントの中のさらに一部です。財政を決定的に傾けたのは、10億リーヴルを超えたアメリカ独立戦争への参戦でした。首飾り事件の200万リーヴルも、国が1年に使う額のおよそ0.3パーセントにあたります。「パンがなければお菓子を」も彼女の言葉ではありません。出典とされるルソーの『告白』にその人物の名は書かれておらず、書かれた当時、彼女はまだ9歳でフランスにもいませんでした。
14歳でウィーンからヴェルサイユへ送られ、18歳で王妃になり、37歳で革命広場に立つ。母マリア・テレジアとの往復書簡、2021年にX線で解読された15通の手紙、そして革命裁判の記録をたどりながら、あの一夜が何を奪ったのかを追いかけます。裁判の最後に彼女が傍聴席へ向けて述べた言葉も、記録のとおりにそのまま読みます。
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▼チャプター
0:00 オープニング
1:54 十五番目の子
3:45 川の中の島
5:33 母からの手紙
7:20 十八歳の王妃
9:08 部屋着の肖像画
10:52 首飾りの罠
12:42 赤字夫人
14:34 十月の朝
16:31 黒く塗りつぶされた手紙
18:21 六頭立ての馬車
20:08 あと五十キロ
21:58 帽子を脱がない群衆
23:53 敵国への手紙
25:37 八月十日
27:14 ここにいる母親たちへ
29:04 四時半の手紙
30:40 総まとめ
▼注記
・本編はマリー・アントワネットと母マリア・テレジアの往復書簡、革命裁判の記録、フランス国立文書館ほかの公開資料をおもな手がかりに構成しています。後世の伝記や創作にしか出てこない逸話は、その旨を本編で明示しています。
・年齢は満年齢です。
・金額は当時のリーヴル建てで、現在の貨幣価値への換算はしていません。
・史料によって記述が分かれる点、後世の解釈が加わっている点については、本編中でその旨を明示しています。
・映像に登場する情景・人物の姿は史料をもとにした想像図であり、実在の肖像ではありません。
・本動画は制作にあたりAI(音声合成・画像生成)を使用しています。
▼クレジット
音声:VOICEVOX:青山龍星
BGM・効果音:Mixkit ほか
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