三軒茶屋ナザレン教会礼拝説教「行き詰まりの後に」2026年6月28日
三軒茶屋ナザレン教会
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2026年6月28日 礼拝式説教
使徒言行録16章16~24節
「行き詰まりの後に」
日本ナザレン教団三軒茶屋教会
牧師 石川博詞
<説教から> 救い主イエス様の教えを宣べ伝え、それを実行していた使徒パウロと、シラスの身に起きた出来事を読みました。彼らが伝えていたイエス様の教えとは、神と人を愛することです。イエス様が教えてくださった人への愛とは、自分にとって都合の良い人だけ限定さるものではありません。イエス様が愛しなさい言われた人とは、すべての人のことであって、それは敵対する者にさえも及びます。イエス様は次のように教えておられます。マタイによる福音書5章43~48節を読みますのでお聞きください。44節の「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」これこそ、イエス様だけが教えられたまことの神の愛、永遠の愛です。そして、イエス様は、その教えの通り、ご自分を十字架につけた人々が救われるよう、最期まで父なる神様に執り成しの祈りを献げられたのです。この愛こそがアガペー、すなわち唯一無二の愛、まことの愛です。
もし、十字架の上で人の罪の赦しを願ってくださるイエス様の愛がなかったら、罪と共に生きる私たちは誰一人救われることなどありません。ですから、救い主イエス様のまことの愛に救われた者たちは、この愛を世界に伝え、広めるため出かけて行くのです。使徒言行録には、そうした宣教の様子が詳しく記されており、今読んだ16章にはパウロとシラスの言動が伝えられています。
ところが、私たちにとってかけがえのない宝であるイエス様のまことの愛を伝え、広めようとすると、この世からの反発が起こることがあります。クリスチャンがイエス様の愛を伝えようとしますと、試練が迫り、行き詰まることがあります。それはイエス様が、この世から迫害されたのですから、私たちクリスチャンもそうした経験をするは当然です。まことの神の愛を語るとき、何らかの行き詰まりを経験することは避けられません。パウロとシラスも、イエス様の愛を宣べ伝える度に迫害を受けました。それでも、主イエス様が教えてくださったように、敵を愛する愛を実践するのみです。その愛の実践がパウロたちを通して、看守に対して示されたのです。
事の起こりとは、パウロとシラスがフィリピで金もうけのために奴隷とされていた女性と出会い、その女性を解放したことから始まります。彼女を奴隷にして暴利をむさぼっていた者たちは怒ります。そして、パウロとシラスを「町を混乱させている」者たちだと、高官たちに訴えたのです。まさに言い掛かりです。すると高官たちも、よく調べもせずパウロとシラスの衣服をはぎ取って、何度も鞭打たせ、さらには牢に投げ込み、看守に厳重に見張らせたのでした。命じられた看守は、二人を最も奥の牢に入れ、足枷まではめてしまいました。こんな理不尽なことがあるでしょうか。フィリピの女の人の人権を無視して。暴利をむさぼっていた者たちの口車に乗せられ、本来誰に対しても公平であるべき高官たちは、パウロとシラスの「敵」となってしまったのです。こうして、神のまことの愛を広める働きは、行き詰まってしまったのようになりました。
さて、私たちは、こうした行き詰まりに直面しますと、どうしても「一生懸命良いことをしているのに、どうして?」と嘆きたくなってしまいます。「主に従っているのに、どうして足を引っ張る者が現れるのだろうか?」と悩みたくなります。でも、それこそが、福音を宣べ伝える時に起こるべくして起こることなのです。なぜなら、主イエス様が、敵を愛し、迫害する者のために祈るよう教えられた通り、この世はまことの愛を受け入れようとしないからです。しかし、まことの愛は、決して行き詰まりません。むしろ、詰まってしまった時こそ、偉大な働きが起こるのです。
この後、パウロとシラスは、主イエス様の教えの通り、敵をも愛する愛を実行しました。看守は、パウロとシラスを換気することも出来ない、ジメジメしたとても不衛生であったことでしょう、まさに行き詰まりへと押し込め、足枷まではめたのです。そして、神の愛が伝わらないようにしたのです。それでも、パウロとシラスは、神のまことの愛を賛美し、祈っていました。すると突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動き出しました。たちまち牢の戸がみな開いてしまい、すべての囚人の鎖も外れてしまいました。看守は牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、自殺しようとします。ところが、 パウロが大声で「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」と叫んで看守を救ったのです。パウロは、看守にも囚人たちにも、まことの愛を伝えたのです。看守は、自分たちを束縛するまさに敵です。パウロは、その命を愛し、救ったのです。
パウロとシラスの自由を奪うことが、この看守の責務です。ところが地震によって、その責務が果たせなくなってしまいました。看守も行き詰まってしまったのです。しかし、パウロはその行き詰まりから、主の愛をほめたたえる賛美をもって看守を開放したのです。こうして、看守はまことの神の愛と出会うことができました。牢屋に入れられてしまうという行き詰まりを、パウロとシラスは体験しましたが、それは神の愛を示し、人々の魂を罪から解き放つために、主が用意された御業だったのです。
もちろん、行き詰まれば、誰でも意気消沈してしまい「どうして、なぜ?」と悩みます。でも、主なる神様は、そこから御手を働かせてくださるのです。私たちの力だけで何とか出来ることなら、主はそれを見守っていてくださることでしょう。しかし、どうしようもなくなった時こそ、私たちは主の御業を体験するのです。旧約聖書を通読していて、そうした体験をした人たちのことを幾度も知りました。私たちも、自分の能力、努力で何らかの成果を上げることがあり得ます。それで賞賛されるは嬉しいことです。でも、それを誇ったり、ましてや主の御業だと豪語するのは見当違いです。私たちクリスチャンが誇るべきは、自分の力ではどうしようもできないこと、つまり敵をも愛する主の愛を受けていることのみです。この愛に満たされている恵みに感謝し、魂の奥底から主を賛美し続けましょう。
主なる神様の御恵みをお祈りします。アーメン。