教科書には載らない「本能寺の変」|寺へ走った僧が見た「明智光秀の謀反」
歴史教科書の袋とじ
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教科書には載らない「本能寺の変」|寺へ走った僧が見た「明智光秀の謀反」
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▼目次
0:00 はじめに:燃える寺へ走る僧
1:52 第1章 信長の寺の僧
4:38 第2章 あの朝
6:18 第3章 墓の裏の火
8:14 第4章 光秀の陣へ
10:16 第5章 探す光秀
12:10 第6章 骨の無い葬儀
14:36 第7章 清玉の行く末
15:41 結び
天正10年(1582)6月2日の夜明け、明智光秀の軍勢に囲まれて燃える本能寺へ、寺の僧20人ばかりを連れて走った僧がいました。信長の朱印状を受けて東大寺の大仏殿の建て直しを率いていた、阿弥陀寺の清玉です。
教科書は「明智光秀が本能寺で織田信長を討った」の一行で済ませますが、その朝、燃える寺の墓の裏の藪では、十人あまりの武士が火を焚いていました。
13年前から光秀とも秀吉とも文書でつながっていた清玉は、そこで何を引き受け、そのあと二人とどう向き合ったのか。
阿弥陀寺の住職が150年ほどのちに書き留めた由緒を軸に、公家の日記や宣教師の記録を添えて、あの朝とそのあとをたどります。
▼この動画について
・お話は、阿弥陀寺の20代目の住職が享保16年(1731)に、寺の古い僧や檀家の年寄りの覚えを集めて書き留めた『信長公阿彌陀寺由緒之記録』(『史籍集覧』第25冊所収)に沿っています。清玉と光秀のせりふも、この由緒の文を今の言葉にしたものです。
・日付や京の様子は、公家の日記(『言経卿記』『兼見卿記』『言継卿記』)、宣教師の年報、攻め手の一人の『本城惣右衛門覚書』、秀吉の側の『惟任退治記』で補い、光秀・秀吉の文書と信長の朱印状は『大日本史料』の翻刻によっています。
・信長の亡骸の行方には諸説あります。骨は焼け終わってから集めたという本(『雍州府志』)や、骨を拾ったのは大雲院の貞安だという本(『和漢三才図会』)もあり、この動画は阿弥陀寺の由緒が伝える話をたどっています。
・光秀が6月2日の昼にいた所は、記録によって分かれます。
・清玉の没年と年(天正13年・44歳)は、明治の仏教の人名辞典(寺の過去帳による)によります。
・「再現イメージ」と表示した絵と動画は、場面を思い浮かべていただくために生成AIで作ったもので、当時の資料ではありません。
・ナレーションと登場人物の声は音声合成(ElevenLabs)です。
▼史料・画像の出典
・史料・肖像・写真・地図の出典は、それぞれ映っているあいだ画面に表示しています(国立国会図書館デジタルコレクション・Wikimedia Commons ほか)。
・地図データ © OpenStreetMap contributors(ODbL)https://www.openstreetmap.org/copyright
信長の亡骸の行方には、いくつもの話が伝わっています。あなたが初めて耳にしたのは、どんな話でしたか。よければコメント欄で教えてください。
#本能寺の変 #織田信長 #日本史