八人全員が七十日の漂流を生き延びたのに、なぜ二年後には一人も残っていなかったのか(稲若丸 1806・ハワイ)
カイの歴史のしくみ解剖
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八人全員が七十日の漂流を生き延びたのに、なぜ二年後には一人も残っていなかったのか(稲若丸 1806・ハワイ)
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カイの歴史のしくみ解剖
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#歴史 #歴史解説 #漂流 #江戸時代 #ハワイ
八人全員が七十日の漂流を生き延びたのに、なぜ二年後には一人も残っていなかったのか。文化三年、一八〇六年の早春、安芸の木谷浦の五百石船、稲若丸は下田沖で帆柱を切り、七十二日間、太平洋を東南へ流されました。雨水と米の粥、飛び込んできた飛魚、帆の縫い針で釣った鰤二匹。八人は誰ひとり死なずに、中国からアメリカへ向かうアメリカ商船ティバー号に拾われ、オアフ島に上陸します。記録に残るかぎり、ハワイの土を踏んだ最初の日本人でした。
カメハメハ一世の島で三か月半。斧四十丁ぶんの滞在費が尽きたころ、アマサ・デラノ船長の船が八人を広東へ運びます。清の役所は受け取らず、八人はオランダ商館に引き渡されました。鎖国の日本に入れるのはオランダ船と唐船だけ。オランダ船はバタビアから年に一度しか出ない。しかも一八〇七年のオランダはナポレオンの支配下にあり、アメリカの船を雇ってオランダの旗を立てて長崎へ送っていました。八人はマカオから赤道を越えてバタビアへ下り、「ヨーロッパ人の墓場」と呼ばれた旧市街で百日待ちます。そこで二人、長崎への船で三人、長崎の港で一人。揚り屋で一人。残った善松は故郷に帰り、半年ほどで病死したと伝わります。
この動画は、善松の口述『夷蛮漂流帰国録』を扱った宮永孝・吉村昭・Kono/Sinotoの研究と、八人を実際に運んだアマサ・デラノの航海記(一八一七年)にもとづいて、海ではなく「正しい帰り道」が八人を奪っていったしくみを、一つずつ見ていきます。
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0:00 拾われた八人
0:35 木谷浦の五百石船
2:06 帆柱を切る
2:50 雨水と鰤二匹
4:06 苫を振る
5:32 王と四十丁の斧
7:13 壁のない家
8:23 斧が尽きる
9:59 広東の筆談
11:58 ただひとつの扉
13:45 バタビア
15:19 ヨーロッパ人の墓場
16:44 マウント・ヴァーノン号
18:12 揚り屋
19:13 帰って半年
19:54 数えなおす
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一八〇六年の秋のオアフ島で、斧が尽きたと言われ、目の前に中国行きの船が一隻だけあったら、あなたは乗りますか。コメントで教えてください。
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【出典・参考資料 / Sources】
■ 一次資料
Amasa Delano, A Narrative of Voyages and Travels in the Northern and Southern Hemispheres (Boston, 1817) pp.400–402, 410–411
https://archive.org/details/anarrativ...
■ 研究・論文
宮永孝「北米・ハワイ漂流奇談(その一)」『社会志林』60(2)、法政大学、2013(二 安芸国・稲若丸)
https://hosei.ecats-library.jp/da/rep...
Hideto Kono & Kazuko Sinoto, "Observations of the First Japanese to Land in Hawai'i", Hawaiian Journal of History 34 (2000)
https://hdl.handle.net/10524/201
Madoka Kanai, "A Note on the Earliest American Trading with Japan", Asian Studies 2(3), 1964
https://www.asj.upd.edu.ph/mediabox/a...
■ そのほか
平原善松(Wikipedia、吉村昭『漂流記の魅力』新潮新書にもとづく)
https://ja.wikipedia.org/wiki/平原善松
Japanese in Hawaii(英語版Wikipedia、Inawaka-maru の節)
https://en.wikipedia.org/wiki/Japanes...
Batavia, Dutch East Indies(英語版Wikipedia、マラリアと「ヨーロッパ人の墓場」)
https://en.wikipedia.org/wiki/Batavia...
Hendrik Doeff(英語版Wikipedia、ナポレオン戦争期の中立国船)
https://en.wikipedia.org/wiki/Hendrik...
Far Outliers, "Hirahara Zenmatsu, the First Japanese in Hawai'i"(Kono/Sinoto の抜粋)
https://faroutliers.blogspot.com/2005...
Images of Old Hawaii, "Japanese Contact"
https://imagesofoldhawaii.com/japanes...
Commonplace, "Before the Gannenmono: The First Japanese in the Hawaiian Islands"
https://commonplace.online/article/be...
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【断り書き】
・日付は旧暦と年号(文化)で述べています。西暦は年の目安としてだけ使っています。
・オアフ島に着いた日は、宮永・吉村は四月二十八日、Kono/Sinotoは五月五日としており、動画では「四月の末、西暦では六月の半ばごろ」としています。家を建てた島民の数も、記録によって五十人余りとも二百人ほどとも書かれています。
・雨水・飛魚・縫い針の釣り針・茶と粥から始めた食事・広東やバタビアの町の様子・バタビアで会ったオランダ人の話は、善松の口述にもとづく記述です。王がデラノに言った言葉、斧四十丁と手紙、広東の筆談、五百ドル、バタビアでの再会と刀は、デラノの航海記にもとづく記述です。
・広東の筆談で「二十二人が乗り、十四人が死んだ」と記録された答えは、宮永孝が事実無根として退けているものです。動画もその立場で扱っています。
・松次郎の死については、事実としてのみ述べ、方法や動機には触れていません。善松が帰郷後半年ほどで病死したことは吉村昭とKono/Sinotoの記述によりますが、病名は伝わっていません。
・ルイ・ショリスのホノルル港図・カメハメハ一世像・ハワイの草葺きの家(一八一六年)、ウィリアム・ダニエルの広東商館図(一八〇五年ごろ)、ジョージ・チネリーのマカオ図(一八三〇年ごろ)、ヨハネス・ラッハ(伝)のバタビア市庁舎図(一七七〇年ごろ)、川原慶賀の長崎港図(一八二〇年ごろ)、デラノ『航海記』(一八一七年)の扉は、いずれも著作権の切れた資料です。それ以外の絵は、このチャンネルで描き起こしたもので、史料ではありません。善松の顔も、残っている肖像はなく、描き起こしです。