紫式部と清少納言が会ったという記録は、ありません
歴史の帳
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紫式部と清少納言が会ったという記録は、ありません
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紫式部と清少納言は、宮中で張り合ったライバルだった。よく知られた話です。ところが、二人の時代の記録を探すと、紫式部と清少納言が会ったという記録はありません。二人が宮中にいた時期は、少なくとも五年ほどずれています。
二人のあいだにあるのは、二冊の本だけでした。
■ 清少納言と定子
・清少納言が一条天皇の中宮定子に仕えはじめたのは、九九三年の冬のころとされています。香炉峰の雪の場面は枕草子に書かれています
・九九五年に定子の父・藤原道隆が亡くなり、翌年には定子の兄と弟が都を追われ、定子は自ら髪を切りました
・このころ清少納言は、道長の側に通じているとうわさされて家にこもっていたと、枕草子の中に自分で書いています。定子からは山吹の花びらを入れた手紙が届きました
・枕草子のおしまいには、定子の兄が差し上げた紙を定子からもらい、家にこもっていたころに書きためたことが書かれています
・定子の家が傾いた時期に書かれたのに、枕草子には没落がほとんど書かれていません。鎌倉時代のはじめの『無名草子』は、これを清少納言の心がけとしてほめています
■ 定子の死と清少納言
・一〇〇〇年(長保二年)、道長の娘・彰子が中宮となり、一人の天皇に二人のきさきが並びました
・その年の十二月、定子は子を産んだ直後に亡くなりました。二十四歳でした
・清少納言はそれからまもなく宮中を去ったと考えられています
■ 紫式部が宮中に来たのは
・紫式部は藤原宣孝と結婚しましたが、宣孝は定子が亡くなって四か月ほどのちに亡くなりました
・紫式部が彰子に仕えはじめたのは、一〇〇五年か一〇〇六年の暮れとされています
■ 二人が書いた、たがいのこと
・枕草子「あはれなるもの」には、白い服で詣でるのが習わしの御嶽に、派手な衣で息子と出かけ、そのあと筑前の国の長になった藤原宣孝の話が出てきます。のちの紫式部の夫です
・紫式部日記には、和泉式部・赤染衛門・清少納言の三人の評があり、清少納言にだけほめる言葉がありません。このとき清少納言はもう宮中にいませんでした
■ この回で言わなかったこと
・紫式部が清少納言を厳しく書いた理由(宣孝の話への仕返しなど、諸説あります)
・清少納言の晩年を語る、あとの時代の説話の中身
■ 確かなことと、そうでないこと
断定したのは、定子の生没と年齢、道隆の死と長徳の変、彰子の立后、宣孝の死去、紫式部日記と枕草子の該当箇所の中身です。
清少納言の出仕と退出の時期、紫式部の出仕の年、源氏物語を書きはじめた時期、清少納言が月の輪で暮らしたことは、伝わっている形にとどめました。
歴史の帳では、教科書やドラマで一行にまとめられている話を、記録に残っているところまで戻して並べ直しています。