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「豊臣兄弟!」に学ぶ日本史 狩野永徳とその後 安土城や聚楽第、大坂城に最高峰の絵画を描いた巨匠と弟子たちの物語 片岡鶴太郎が話題 History of JAPAN

歴史JAPAN Kunibo

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「豊臣兄弟!」に学ぶ日本史 狩野永徳とその後 安土城や聚楽第、大坂城に最高峰の絵画を描いた巨匠と弟子たちの物語 片岡鶴太郎が話題 History of JAPAN

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織田信長や豊臣秀吉といった天下人に重用され、桃山絵画の頂点を築いたのが狩野派四代目の絵師・狩野永徳である。大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる秀吉や弟・豊臣秀長が天下の覇権を握った時代、その居城や御殿を黄金と濃彩で彩り、武家の権威を視覚化したのが永徳率いる狩野派であった。 永徳は若き日、国宝『洛中洛外図屏風(上杉本)』にみられるように、2,400人以上の都市風俗を克明に描き出す細密描写の名手であった。しかし、巨大化する城郭の薄暗い大広間を照らし、居並ぶ家臣たちを威圧する視覚効果が求められると、対象を巨木や猛獣に絞り、太い墨線と金碧濃彩で豪快に描き抜く「大画(たいが)様式」を確立した。さらに、短納期で膨大な襖絵を仕上げるため、下絵から彩色までを一門で分担する合理的な工房システムを整え、画壇の覇権を掌握した。 天正18年(1590年)、千利休の後ろ盾で台頭したライバル・長谷川等伯が仙洞御所の障壁画を受注しかけると、永徳は激しい政治工作でこれを取り消させ、一門の利権を守り抜いた。しかし、度重なる過密制作は肉体を蝕み、同年、東福寺法堂の天井画を制作中に48歳で急逝した。現代でいう過労死であったとされる。 永徳が手掛けた安土城や聚楽第、大坂城が相次いで破却・焼失したため、確実な現存作はわずか十数点にすぎない。だが最新の研究では、国宝『檜図屏風』がかつて御殿を飾る襖絵であったことや、規格外の大きさを誇る国宝『唐獅子図屏風』が陣屋屏風ではなく城郭大広間の床の間を飾る障壁画であった可能性が浮き彫りとなっている。 永徳の没後、狩野派は長男・光信や次男・孝信が継ぎ、豊臣と徳川の双方に配慮しながら命脈をつないだ。そして永徳の孫・狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり、「江戸狩野」の頂点体制を完成させた。探幽は乱世の威圧的な大画様式から一転、泰平の世の秩序にふさわしい「余白の美」を重視した瀟洒な様式を生み出し、二条城二の丸御殿などを彩った。 永徳が命を削って築いた工房の基盤と美意識は形を変えて受け継がれ、狩野派は江戸時代を通じて260年以上も日本の画壇を統制する強固な体制を確立したのであるが・・ 作曲 秋山裕和 http://www.hmix.net/ #nhk大河ドラマ #豊臣兄弟 #狩野永徳