諸葛という名字は、なぜ蜀以外にもたくさん出てくるのか?
役に立たない三国志
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諸葛という名字は、なぜ蜀以外にもたくさん出てくるのか?
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役に立たない三国志
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諸葛といえば孔明、孔明といえば蜀。そう思っていたのに、魏や呉の記録を読むと、諸葛という名字がやけに出てきました。
孔明には、呉に仕えた実のお兄さんがいます。同じ国に集まる話もあったのに、兄弟は最後まで別々の国にいました。
諸葛という名字は、なぜ蜀以外にもたくさん出てくるのか。二人の案内役が、歴史書『三国志』(注を含む)などを調べて、兄弟が同じ国に集まらなかった理由まで追います。
【チャプター】
0:00 諸葛といえば孔明、孔明といえば蜀?
1:01 孔明の実のお兄さん
1:47 一族で計画して分かれた?
2:16 孔明より古い名字と、魏の諸葛誕
2:52 蜀は龍、呉は虎、魏は狗
3:26 兄弟は、なぜ別々の国へ
5:01 同じ国に集まる話
6:36 記録に残る三つの声
8:40 215年、兄が蜀へ
9:32 兄への手紙
10:44 国を越えた養子と、甥の心配
11:29 次の世代
13:09 名前が残る諸葛は22人
13:49 私の答え
【このチャンネルについて】
「役に立たない三国志」は、三国志好きなら一度は気になるけど、わざわざ調べない疑問に決着をつける歴史コメディです。どうでもいい疑問をひとつずつ、本気で調べます。
【事実と創作について】
主要な歴史事実は、下記の史料に基づいています。案内役二人の会話・リアクション・比喩などの演出は創作です。人物への感想や評価は、史実と区別して二人自身の見方として話しています。歴史上の人物の発言は、記録に残る内容の現代語訳・要約であり、逐語再現ではありません。
人物の絵はこのチャンネルで用意したもので、肖像画や史料の絵ではありません。
【主要参考文献】
陳寿『三国志』(裴松之の注を含む):諸葛亮伝(諸葛瞻・諸葛喬を含む)・諸葛瑾伝(注の『江表伝』『呉書』)・諸葛恪伝(注の『江表伝』)・諸葛誕伝・鍾会伝・陳震伝・呉主伝、諸葛亮伝の注の『袁子』と裴松之の評、陳寿の『諸葛亮集』の上表
班固『漢書』諸葛豊伝
劉義慶『世説新語』品藻
『太平御覧』(孔明が兄に宛てた手紙の断片)
【注記】
・この動画の「兄弟」は、実の兄弟の諸葛瑾(兄)・諸葛亮(孔明)・諸葛均(弟)です。魏の諸葛誕は、『三国志』の注に引かれた『呉書』では諸葛瑾の「族弟」、『世説新語』では「従弟」とされる同じ一族の人で、孔明の実の兄弟ではありません。孔明とのくわしい続き柄はわかりません。
・諸葛という名字は、前漢の諸葛豊(『漢書』)の時代からあります。名字の由来には、記録によって違う説があります。
・孔明と弟の均が叔父の諸葛玄について南へ行き、のちに荊州へ移ったこと、兄の瑾が戦乱を避けて江東へ渡り、推薦されて孫権に仕えたことは、それぞれの伝の本文によります。兄弟が故郷を出た年や、同じときに出たかどうかはわかりません。一族が相談して三つの国に分かれたという記録は、調べた範囲では見つかりませんでした。
・孫権が瑾に「弟を呉に引き止めないか」と持ちかけ、劉備には自分から手紙を書くと言った話と、瑾の「弟が残らないのは、私が向こうへ行かないのと同じ」という答えは、諸葛瑾伝の注に引かれた『江表伝』にある、孫権が後に書いた手紙の中の回想です。いつの話かは書かれておらず、208年に孔明が呉へ来たときの話とするのは、ほかの記事と合わせた読みです。
・孫権が跡を継いだころ、呉に身を寄せた人の中には身の振り方を考える人がいて、主従の関係が固まっていなかったことは、呉主伝の本文によります。
・「孫権は自分を重んじても、使い切れない」は、諸葛亮伝の注に引かれた『袁子』が、張昭が孔明を推薦したときの孔明の言葉として伝える話です。これに裴松之(注をつけた人)が「そんな理由で仕える相手を替えるはずがない」と反論しています。孫権が瑾に持ちかけた話とは別の記事で、どちらが孔明の本心かは決められません。
・215年に瑾が使いとして蜀へ行き、兄弟が公の場では会ったが、下がってから私的には会わなかったことは、諸葛瑾伝の本文によります。小説『三国志演義』の兄弟の涙の対面は創作です。
・孔明から兄への手紙は、229年の陳震についての手紙(陳震伝)、234年の息子の瞻についての手紙(諸葛瞻伝)などが残っています。白帝の兵についての手紙は『太平御覧』に残る断片で、いつの手紙かはわかりません。瑾から孔明への手紙の本文は、調べた範囲では見つかりませんでした。
・兄の次男の喬が孔明の跡継ぎになったことは諸葛亮伝の本文、孔明が兄の長男の恪を心配して陸遜に手紙を書いたことは諸葛恪伝の注に引かれた『江表伝』によります。
・252年の東興の戦いで、呉の諸葛恪の軍と魏の諸葛誕の軍が戦いました。257年に諸葛誕が反乱を起こし、息子の靚を呉へ送って助けを求めました。263年に魏が蜀を攻めたとき、魏の将軍の一人が諸葛緒で、蜀では孔明の息子の瞻が37歳で戦死しました。緒と瞻が直接戦ったわけではありません。
・「名前が残る諸葛は22人」は、『三国志』の本文と注に名前が出る三国時代の諸葛の人を、一人を一つの国だけに数えたもの(魏5・呉9・蜀8)です。蜀以外の14人のうち6人は、孔明とのつながりが調べた範囲ではわかりません。わからないことは、つながりがないという意味ではありません。
・「蜀は龍を得て、呉は虎を得て、魏は狗を得た」は、のちの時代の『世説新語』にある当時の評判です。「狗」の意味は書かれていません。
・兄弟が同じ国に集まらなかった理由についての「別々の道で逃げ、それぞれの主君への筋を通した」という答えは、案内役の見方です。兄弟が自分で理由を書いた記録は調べた範囲では見つからず、弟の均がどう考えたかもわかりません。
【音声】
VOICEVOX:夜語トバリ
VOICEVOX:春歌ナナ